KAWARABAN blog
矢作千鶴子kawarabanブログ

帯に心を描く

2020年5月10日

人と人との「繋がる」「寄り添う」を避けなくてはならない「ウィルス」が世界中に齎されています。 まだ、耐える日々は続いています。

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2011年3月11日。未曾有の災害だった当日。 私は東京の店舗で、お客様と話していた時の突然の揺れでした。 スタッフモ皆恐怖に固まっていました。 甚大な被害を伴った大惨事が東日本に起きました。 日本国中が「寄り添う」「繋がる」を以って国民全員が東日本を励ましました。

その三年後に震災の傷が癒えない東北の気仙沼のために立ち上がったフジテレビの「めざましプロジェクト」 それが「気仙沼のサメ革を使ったプロジェクト」でした。 着物の小紋柄の中にはたくさんの種類がありますが、伝統小紋の中の鮫小紋とサメ革をコラボできないかと、咄嗟に考え番組にオファーしました。 サメの革はとても硬いということで、敵から守るという験担ぎもあり、鮫小紋は武士に好まれ、現在でも正式な場所に着ていくことができる「小紋」。 プロデューサーさんが考える大きなプロジェクトには至らなくとも、着物の伝統が脆弱になっている今の日本で、そんな鮫小紋の熱を持った事で、実現したコラボ企画になりました。 打ち合わせから間も無く、気仙沼へのロケでした。

初めて訪れる気仙沼と、サメ革のショップシャークスを営む、今回の主役熊谷牧子氏との出会い。 実は、その日を前に、何かしたいと考えて、熊谷氏が愛してやまないサメの絵を帯に描こうと決めました。 帯に心を込めて力一杯の絵を描く 着物を着る人が少なくなった昨今、着物を着て早朝から被災地気仙沼に行って、熊谷牧子氏に初めて会う機会。 そんな時に、彼女を喜ばせ、驚かせたい….頭に浮かんだのがサメの絵でした。

きっと、驚いてくださる….きっと元気を与えることが出来る! そう信じて、これからのプロジェクトへの意気込みを見せたい一心で描いたのした。

ロケの当日、現地は、当時 災害で火災と津波で奪われた家屋や町並みが消えた光景が広がり、手を合わせずにはいられませんでした。 いよいよ、対面の時。 姿を見ただけで、涙が溢れました。 熊谷氏も、帯を見るなり涙。

色々な言葉がなくとも着物血が伝わった瞬間でした。 ???????????????????????? 私はプロデューサーさんにも、熊谷氏にも、私が出来るだけの事をしたい気持ちでいっぱいでした。 その年の「温故知新ファッションショー」に津波で着物が流されてしまったという熊谷氏にサメ革の帯と鮫小紋の着物のランウェイで登場して頂きました。 サメの絵の帯には熊谷さんのサインとプロデューサーさんのサイン。 見るたびに、昨日のことのように思い、このウィルスにも負けないように思います。

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今に伝統を表現するということ

2020年5月5日

便利な時代になって、3Dプリンターで家まで作れるようになりました。
モラルという枠から外れた人は、ナイフや銃も作ってしまう時代です。
こんな時代だから、心からワクワク出来るものに出会える機会が少なくなった気がします。


誰もが便利の中で思いつくもの、便利の中で時間をかけずに即席で作ってしまえるもの
便利が量産を可能にした時代、特別なものとの出会いの機会も稀有になって来ました。

私は落語が好きで、一時は毎日車の中で名人のCDを聴いていました。
そして最近「講談」に惹かれています。
数年前に、とあるパーティーで神田陽子氏の「赤穂浪士 忠臣蔵の討ち入り」の下りを聞きましたが、その口調と声のハリと迫力に引き込まれ、それ以来「講談」にも興味を抱いていました。まさに『落語はその場面にいる人を演じるが、講談は客観的にその場を語る』双方の面白さがあるとの違いがまた、面白い!!
そんな中、今話題の神田伯山氏が「伝統というのは今のお客様にどう、寄せすぎず寄せなさすぎない中位なところをとる。昔の言葉遣いは何言っているかわからなくてはならないが、かわからなくとも美文調の美しさを残すんです」と仰ってっていました。
その言葉に久々に心からワクワクしました。

着物も同じで、昔の感覚だけを押し付けられるのではなく、伝統の美しさを温存しつつ、今に寄せすぎず、寄せなさすぎないところで表現する!

数年前に、イタリアに行きました。
ローマの街の風景に、帯地のBonTonジーンズで、着物の生地のJジャンで歩きました。
ヨーロッパの伝統が息づく風景の中で、着物の風情は寄せすぎず寄せなすぎずの中くらいのところで馴染んでいました。

矢作千鶴子瓦版ブログ

国芳や北斎に学ばせて頂いてます

2020年5月1日

浮世絵には肉筆画と木版画の種類があります。 私は木版画の大ファンです。
住まいのある墨田区で生まれたのが葛飾北斎。 北斎記念館も数年前にオープンしています。
代表作の富嶽三十六景の中に着物姿で入り込んだこともあるほどです。

パリから起こったジャポニズムのきっかけは「木版画」です。 浮世絵によって、ヨーロッパ中に日本ブームが起き、様々な日本の芸術が脚光を浴びました。 茶碗、壺、刀、着物、掛け軸…... 西洋画にはない独特の表現と色使いに、西洋の芸術家のみならず多くの人々は魅了されました。 浮世絵のその名の通り、木版画は今で言う週刊誌や新聞のような役割で、絵師が原画を描いて、山櫻の木に彫り師が色ごとに彫る。刷り師は、ピタリと色を合わせて刷る分業で行なっていました。
当時大ヒットした「江戸百景や、富嶽三十六景」などは今で言う旅ガイド、旅行ブックでした。 印刷のように何枚も同じものを刷ってそれが飛ぶように売れ、旅ブームに拍車を掛けました。 そんな浮世絵で一番有名な「神奈川沖浪裏」の大波の生きているかのような表現に、西洋人も心奪われたのでしょう。
そして、大好きなのは歌川国芳です。 歌川国芳の生まれたのは日本橋。 実家は紺屋(染物屋)だったというので、物心ついた時から着物模様の細かなディティールが脳内に染み付いていたのでしょう。 初めて見た時から、感動! 私が着物を着る時の参考は国芳といっても過言ではありません。 国芳の着物はため息が出る程すごいセンスです。

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歌川豊国に弟子入りした時15歳。 兄弟子に国貞と、錚々たる環境。 今のように写真もMacintoshも無かった分、その千里眼は磨かれたのだと思います。
実写以上に、彼らのセンスが加わった浮世絵師の描く着物姿は、私には着物バイブルでした。勿論現在でも。

1842年水野忠邦の天保の改革 国芳45歳。国芳の真骨頂である風刺のセンスが光ります。
贅沢に入っていた歌舞伎役者のプロマイド禁止には歌舞伎役者を猫で描く。
どんな逆境にも負けず、知恵で楽しんだ。 「四十八茶百鼠」贅沢な赤や青や緑や金糸をを禁止されたら、全ての色に少しの鼠色を加えて、どんな色も茶色と鼠色にして、おしゃれを楽しんだ。

技術革新の上にある「便利」に囲まれた昨今、木版画の浮世絵を見ていると、刺激を受けます。
何がなくても「知恵」と想像力がある。 大好きな国芳や北斎に教えられています。

私がショーを始めたきっかけ

2020年4月25日

毎年行っている「温故知新ファッションショー」も今回で11回を迎える予定でした。 新型コロナウィルスの拡散懸念のために今回を取りやめ、後日に再開催することに致しました。

私がショーを始めたきっかけ………...

着物に深く関わってきた人生でなかった私が「着物」に惹き込まれたのはアメリカの地でした。 18年前、乾いたカリフォルニアの地に響く太鼓の音に浴衣姿の盆踊りという光景と出会いました。 惹き込まれました。 その光景の中に HISTORY / Storyが視えたえたからでした。

遠い異国に住んで、日本では感じたことがない事に出会い、その光景に自分のルーツを感じました。 踊っていた人たちの顔や肌の色は日本人から離れていましたが、魂は彼らの先祖を敬う「大和心」を持っている!と視えて、暫く呆然と立ちすくみました。

着物というものを「日本人の心」と捉えると、日本にいた時の着物に物足りなさを感じるのでした。

そこで、帰国後に着物をじっくりと紐解いてみることにしました。 歴史や、着物の変遷や、着物と素材、着物と地方、着物の形、着物と色使い、季節と着物。着物のしきたり….等々、現在の日本人には縁遠くなってしまった着物のそれらには、世界で誇ることができることだらけでした。 戦後暫く、資本主義の自由競争の中で着物というものは「商売中心」として捉えられ「大切な日本の心の文化」を第一に教えてくれる機会がないことに気づき、悔しくなりました。

着物という歴史文化を着物から離れてしまった人々にどうアプローチをしたらいいのだろう….. それを考える時に常に浮かぶのはカリフォルニアの盆踊りでした。 日本を離れて、遠い異国に移民をした先祖たちが、望郷の思いを着物に託していたに違いありません。 戦後、日本人からアイデンティティーを失いつつある我々のこれからに「着物」は本当に必要なのだの思いが沸沸を煮えたぎりました。

暗中模索の中で、思いついたのが着物メインのファッションショーでした。 パリやニューヨークロンドン、トウキョウのコレクションスタイルでなく、着物で描く日本の美学。 毎回のショーにテーマとタイトルを設け、モデルは心あるノンプロ、プロは使わない。 ランウェイや舞台のリハは当日一回のみ、 そのスタイルで、11回。海外でも行ってきました。

回数を重ねる毎に、不思議と出来上がりの映像がリアルに現れるという現象が如実になって来ました。 それは、私のイメージが関わってくださる方々に伝わるからなのでした。 皆さんの「ワクワク」は正に「心」がワンチームになっているからです。 今回のテーマはジャズ。

思い込んでいる「ジャズ」のイメージを拡大し、着物と融合するその作業は、18年も前にカリフォルニアで観た盆踊りそのものです。 先祖を敬い繋がっているあの光景なのです。

新型コロナウィルスの感染を抑えたその暁に、再開催を決めています。 第11回温故知新ファッションショー・テーマ・・着物とジャズ 行きます!


勝ち色マスクについて

2020年4月17日

今回は「勝ち色マスク」の「勝ち色」のことをお話しします。

藍染ってご存知ですよね。

その藍は飛鳥奈良時代、日本に薬として入りました。元々、世界各地に自生し、古来より多くの効能を持つ薬草として珍重されてきました。
肌に塗ったり、貼ったり、煎じて飲んだり、食べたり、藍の効果は花、草、根、種によって異なり、解毒や殺菌、止血、虫除けの薬として人の暮らしに欠かせない大切な存在でした。
しかし、その大切な藍戦後の高度経済成長で暮らしが便利に、合理性を追求するあまりに、藍の効能はしだいに忘れられました。

皆さんも良くご存知の通り、藍は染物で有名です。

藍染には保温効果もあるのだとか。

特に藍を好んで使ったのは、武士でした。武士は野外で戦い、傷を負います。その負傷した傷自体は致命傷でなくとも、負傷した傷口の化膿から死に至ることもあり、藍で染めた下着で化膿を止たり、止血効果もあった事で止血をしたそうです。
この藍の色を武士は「勝ち色」と呼び、験担ぎとしても好んだ武士の色として次第に定着しました。
室町時代に使用が庶民にまで浸透。日本では定番の染物に。外国人は様々の所に藍染を使う日本人を見て、藍を「JAPAN BLUE」と呼ぶように。1875年に来日したイギリスの化学者のアトキンソンが「ジャパンブルー」と最初に呼んだそうです。

私の中の藍は「青は藍より出でて藍より青し」「藍より青く」などの言葉からくる「青」の美しさです。
2008年に「お誂え」を出版した時に、前半を日本の伝統色をテーマに纏めました。
納戸色、砥粉色、卵色、臙脂色、若竹色….と和名は「なんと芸術的なんだ!」という美意識を認めました。

その中の藍色ですが、色の持つ意味が深いのです。

藍の色の中に、瓶覗色があります。
藍は植物ですが瓶の中で発行を待ちながら時を待つと、藍花が瓶の中で出来てきます。瓶の中に手を入れると、素手が濃い青に染まりきってしまう程強い力を持つ若い藍色で染めてくれます。段々とその藍の力が無くなってくると、水色から弱々しい微かな空色に。瓶覗色とはその弱々しい空色のことを言います。

しかし、絶妙なこの色は歳月をかけた経験豊富な熟練者でないと捕まえることができません。弱々しい色なのに難しい要素がある。 そのことを知った時、この色に強く憧れました。人生と同じなんだと思えたからです。強く人を束縛する若い色----全て飲み込んで寛容に生きる老年の色。年を取って、尚「まだまだ」と生きる人の様に思えたのです。

藍は勝ち色

私の中で、やはり日本人の色は「藍」です。